類似の単語または同義語 洛中

洛外    0.870852

二条城    0.680165

相国寺    0.634261

聚楽第    0.633645

建仁寺    0.626120

慈照寺    0.620263

南禅寺    0.615497

鹿苑寺    0.606818

町衆    0.605641

醍醐寺    0.604641

類義語または同義語 洛中

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(らくちゅう)とは、平安京の京域内のこと。平安京を「洛陽」と呼んだことから派生した言葉で、その示す範囲は時代ごとに違いがある。また、公・官・民、それぞれの立場からも認識の違いがみられる。に対して、に続く外縁地域を洛外と呼んだ。
これに対し、平安時代の文献からの疑問もある。平安時代の文学では左京右京を問わず平安京を「洛陽」あるいは「長安城」と呼んでおり、例えば平安初中期の詩文(「本朝文粋」「和漢朗詠集」など)に「洛陽」「長安城」あるいは「洛城」と現れるが、一つの詩文の中に「洛陽」と「長安」が併記される例は見当たらないからそれらがそれぞれ左京と右京を指したとは言えず、「城」をつけて呼んだところを見れば、共に「平安城」に代わる文学上の雅称として(つまり共に平安京全体を指す言葉として)使われたとするほうが自然である。また遷都後間もなく洛陽と長安の坊名を借りて名付けられたと考えられている「銅駝坊」「教業坊」「陶化坊」などの坊名も、必ずしも「左京は洛陽」「右京は長安」を示していない。その後も「左京を洛陽、右京を長安」と称した事実は平安期の文献では確認できないから、洛陽・長安の区別は少し後、すでに「」や「入洛」などの語が成立していた鎌倉時代以降のことと考えられる。また「小右記」長和4年(1016)6月25日条では西京(右京)を「西洛」とも呼んでおり、やはりここでも右京を含めた平安京全体を指して洛陽と呼んだことが伺える。都を指して「洛陽」という言い方は早くから定着していたが、のちに右京が廃れたことにより都の範囲が狭まり、実質的に「京都(洛陽)=左京」という状態になっていたから、対して詩文に現れた「長安」を右京に付会して、上記「拾芥抄」の「左京洛陽・右京長安」説が成立したとも考えられる。この考え方に立つと「」が必ずしも左京域のみを指した語でなかったことになる。
平安時代には京中()は京職・検非違使の管轄であるが、辺土(洛外)は山城国府の管轄と考えられていた。鴨長明の『方丈記』の養和の飢饉に関する件には、「京ノウチ」を「"一条ヨリハ南、九条ヨリハ北、京極ヨリハ西、朱雀ヨリハ東"」と記し、続いて「辺地(へんぢ=辺土)」として白河や「河原」(鴨川河川敷)とともに「西ノ京(西京、かつての右京地域)」を挙げている。辺土のうち、鴨川の東を河東と呼称し、白河や六波羅などがこれに該当した。『吉記』治承4年11月30日(1180年12月18日)条によれば、安徳天皇が平清盛の六波羅第に滞在中の高倉上皇の元に行幸しようとした際に、記主の吉田経房が辺土への行幸に神鏡を持ち出す事に異論を唱えている。鎌倉幕府が六波羅に六波羅探題を設置したのも、平家滅亡後に、京都における北条氏の邸宅が置かれていたこともあるが、検断権を巡る検非違使との直接的な衝突を避けたことも理由に挙げられる。後に河東は六波羅探題の異称にもなった。正応元年6月10日(1288年7月9日)の伏見天皇による殺生禁止の宣旨には、宣旨を適用するの外側を「近境」と表現して、"東は東山の下、南を赤江(現在の伏見区羽束師古川町)、西を桂川の東、北を賀茂の山"と定めている。鎌倉時代末期の朝廷や室町幕府が酒屋役を「辺土」に課しており、応仁の乱の頃から辺土に替わって洛外という語が一般的になる。
安土桃山時代になり豊臣秀吉が政権をとると、上京と下京を分かっていたそれぞれの構えを撤去し代わって「惣構え」として御土居を構築した。これには打ち続く戦乱でその境界が定かでなくなっていた"「」の範囲を新たに定める狙い"もあったとされる。慶長年間に前田玄以の求めに応じて旧室町幕府の吏僚が編んだとされる『室町殿日記』には、秀吉の「とは」という下問に対し細川幽斎が「東は京極迄、西は朱雀迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏は代々少しづつ替ると申せども、さだめおかるる洛外の境は聊かも違うことなし。油小路より東を左近、西を右近と申、右京は長安、左京は洛陽と号之。(中略)この京いつとなく衰え申、(中略)ややもすれば修羅の巷となるにつけて、一切の売人都鄙の到来無きによりて自ずから零落すと聞え申候」と答えたとある。この幽斎の返答を聞いた秀吉は「さあらば先ず洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤(御土居)を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。このことにより以後「御土居に囲まれた内側が」という定義が一般化したものと考えられる。ただここで留意すべきは、幽斎は「九重の都」の範囲を「東は京極迄、西は朱雀迄」と誤まりつつも、左京と右京と含めて「"さだめおかるる洛外の境は聊かも違うことなし。"」と言いきっていることで、当時の一部知識人の間では「"平安京の京域内が"」という認識がなお存在していたことを示している。
古くは平安京域内を指して「京中」と呼んだが、鎌倉初期から京中に代わって「」の語が頻出するようになる。この「洛」は「洛陽」の一字を採ったもので、後の京都の基礎となった左京を中国の都「洛陽」に擬え、対して、右京(朱雀大路から西側の部分)を同じく「長安」と呼んだとされ、後に右京が廃れたことから、市内(実質的に左京)を(らくちゅう)、外側を辺土、後に洛外(らくがい)と呼ぶようになったされる。洛陽、長安を左京、右京に分けて使ったとする説は、今のところ平安遷都から500年余経た鎌倉時代末期(?)に洞院公賢(1291~1360)によって書かれた『拾芥抄』の「京都坊名」の項に「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記されているのが、最も古い。「左京洛陽・右京長安」説はこれ以降さまざまの著書に引用され、そのことから「とは左京のこと」との主張が生まれて、現在ではあたかも定説になった感がある。