類似の単語または同義語 国是

政体    0.630083

綱領    0.616252

富国強兵    0.611582

本義    0.607198

国益    0.606574

儒教    0.604791

事大    0.603659

大義    0.597660

不干渉    0.594840

我が国    0.585184

類義語または同義語 国是

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(こくぜ)とは、その国の大部分の政策の方向性を決定付ける、国民の支持を得た方針のことであり、基本的には長期的に維持される。憲法と違い、内政・外交その他諸々の分野全てを網羅するものでは無く、内政のみ、もしくは外交のみに作用するということも決して珍しいことではない。そもそも法律として明文化されるとは限らない。よって法的拘束力が無い場合が珍しくない。大抵は「○○主義」などというように簡潔な表現で呼称できる。
明治維新の初期に、明治政府は明治天皇の勅問という形式で「開国和親」をとすることを諸藩代表(公議所・上局)にその是非を問い、その結果明治2年5月28日(1869年7月7日)にこれを是とするという勅答を行った。非核三原則は現在の日本のとされるが、現実には「核を持ち込まない」という原則が守られていないといったことや、核抑止力を確保する点で非核三原則を守ることに異論もある。
上記にあるように長期的に遂行されるものであるため、これによってその国の性格付けがなされやすい。逆に言えば、を知ればその国の性格がある程度知ることができると言える。の形成は、その国の建国のプロセス、もしくはその国の歴史上の大きな転換点となるような出来事上から形成される場合が多い。例えば建国する際の目標であったものが、建国後そのままとしているケースである。このように歴史と密接に絡んでいるのが常であるため、その国のを理解するには、その国の歴史を学ぶ必要があると言える。
綱目 江戸幕府の崩壊とともに成立した明治政府は、これまで尊皇攘夷を掲げて様々な行動を起こしてきた朝廷や薩摩藩・長州藩などの攘夷派志士が中心となって結成していた。このため、各地の攘夷派は新政府が成立すれば当然攘夷が断行されるものと考えていた。ところが、新政府は慶応4年1月10日にいわゆる「開国の詔」を出して諸外国に対して江戸幕府が締結した条約の継続を約束し、また五箇条の御誓文にて「旧来ノ陋習ヲ破リ」「智識ヲ世界ニ求メ」と述べ、続く五榜の掲示においても「万国公法履行」を掲げていたにも関わらず、攘夷については明確な否定をしなかった。
綱目 京都にあった新政府において、三条実美・岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・広沢真臣らが居並ぶ中で伊藤は建白書を提出し、後藤象二郎が内容を読み上げた。
綱目 かつて東禅寺のイギリス公使館襲撃に加わっていた伊藤博文は、その後のイギリス留学を通じて攘夷が非現実的な方針であり、いつまでも実現不可能な路線に固執すべきではないと考えていた。また、いつまでも藩を存続させておくことは日本の政治的な統一を妨げる原因の1つになると考えて一刻も早い廃止を望んでいた。しかし、当時の伊藤はいまだ一介の地方知事でしかなく、中央の方針に関与できるだけの立場にはなかった。
綱目 綱目(こくぜこうもく)は、明治2年(1869年)1月に当時の兵庫県知事であった伊藤博文が、県幹部3名(中島信行・田中光顕・何礼之)及び大阪に赴任中の会計官権判事の陸奥宗光とともに提出した建白書。兵庫論(ひょうごろん)とも。
綱目 これに対して三条以下は賛否を論ずることも無く無言で聞き入ったと『伊藤博文伝』には書かれているが、実際には大久保らの反感を買ったと言われている。なぜなら、大久保や西郷、木戸孝允らは既に将来的な廃藩置県を見据えた版籍奉還の準備を進めていたが、版籍奉還を行えば幕藩体制において絶対的な原理として250年以上続いてきた藩主と藩士の主従関係が根本的に否定することになるため、一歩間違えれば全国的な反乱を引き起こしかねないものであった。そのため、大久保は五箇条の御誓文の精神に則って新政府内の各機関による「公議輿論」の合意を経ることでその正当性を打ち立てる計画であったのである。伊藤の建白書はその計画を壊しかねないものであった。
綱目 伊藤の建白書は忽ち、新政府内外に広まって伊藤は大きな憎悪を受けることとなる。1つは一気に廃藩置県を論じたことによって諸藩の武士は大いに動揺し、一部の保守派が京都に押しかけて、伊藤を「忠義の道を蔑ろにする者」としてその排斥もしくは処罰を新政府に求める動きに出たことである。もう1つは攘夷論の否定を迫り「外国と並立」することを論じたことで一部の攘夷派もこれに同調する動きを見せたことである。これを憂慮した岩倉は伊藤に謹慎を指示し、また3月12日には木戸も伊藤に対して書簡を送り、安易に「外国との並立」との言葉を使うことの危険性を忠告している。
綱目 だが、伊藤の建白が全くの無駄になった訳でも無かった。この年の3月7日に東京の姫路藩邸に各藩の公議人227名を集めて公議所が設置されると、外交政策が急遽課題として取り上げられたのである。4月17日、外国官より「問題17条」と「問題4条」の2議題が提示された。「問題17条」と呼ばれる17条からなる質問形式においてまず攘夷の是非について問い、もし攘夷を行う場合についての対応策について公議人の意見を求めた。その結果が23日に纏められたものの、その質問自体が攘夷の方策について徹底的に問い質したもので、答えに詰まった公議人達は「攘夷は不可である」との回答を寄せたのである。続いて5月21日から東京で開催された上局会議(東京会同)において、25日に公議所の結果を受けて「開国和親」を国策とする事の是非を問う明治天皇の勅問が提示され、28日に上局会議はこれを是とする勅答を提示した。これによって、正式に「開国」を日本(明治政府)の国策とすることが正式に決定したのである。