類似の単語または同義語 蘇峰

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時事新報    0.527483

遺稿    0.521356

類義語または同義語 蘇峰

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徳富 1863年3月14日(文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少のも水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」 のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した。
徳富 は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った。
徳富 1871年(明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は漸次ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』等も読み、兼坂から習うべきものも少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという。その後1875年(明治8年)に再入学。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった。
徳富 大江義塾時代のは、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった。
徳富 のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』 に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。